変わりゆくカラーシャ谷の14年
1992年春の滞在で考えたこと


丸山純

財団法人日本パキスタン協会『パーキスターン』
1992年(通巻126号)pp.2-7




 カラーシャが住むムンムレット谷を私が初めて訪れたのは、まだ学生だった1978年の8月、今から14年前のことだ。灼熱の炎天下をほこりまみれになってジープに揺られてきた身にとって、豊かな緑の谷間は、まるで天国のように思えた。クルミの木陰にたたずむ、伝統的な黒い貫頭衣を着た少女たち。宝貝を縫い込んだヘアバンドにぶらさげてある小さな鐘が、チリーンチリーンと鳴る。なにもかも、あこがれてきた通りだ。ガタガタと飛び跳ねながら進むジープの荷台からそんな光景を眺めて、私は心から満足した。

 ところが、谷の奥に向かう途中、突然カラフルなテントが並んでいるのが目に入ってきた。髪を長く伸ばした若い欧米人の旅行者が、何人もぶらぶらと歩いている。ジープのドライバーに連れていかれてその夜泊まった「ホテル」と称する安宿は、旅行者たちが吸う大麻の臭いにあふれていた。

 翌日からも、ショックの連続だった。まず、谷の奥に英語を話せるカラーシャの青年がいると聞いて出かけてみたが、ガイド料として法外な金を要求された。観光客が団体で何組もやってきて、金を払って女たちに踊りをやらせ、子供たちにキャンディやボールペンを配る。農作業の様子などに興味をひかれて私がカメラを向けると、女たちは顔を伏せて逃げ、子供たちは金をよこせと手をだして迫ってきた。



アレキサンダー大王の子孫

 私がはるばるカラーシャのところまでやってきたのは、高校時代に読んだ、雁部貞夫さん(本協会会員)の雑誌記事がきっかけである。ヒンドゥークシュ山脈の奥にアレキサンダー大王の子孫がいるという記述に、かぎりないロマンを感じて、興奮した。彼らが信仰する馬頭の祭壇や死者をまつって建てる木像、さらに遺体を木棺に入れて地上に放置するという特異な風習などにも興味をひかれた。

 ところが、雁部さんが訪れてからわずか10年ほどの間に、あこがれの「秘境」は、完全な観光地と化していたのである。78年当時、木像は朽ち果てたのが一体残っているだけで、遺体も埋葬するようになっていた。10年遅かった、とその時はつくづくと思った。

 落ち込んでいた私が、その後、ある男の葬儀をきっかけにしてカラーシャたちのなかに入り込み、言葉を習い、衣食住を共にして、ムンムレット谷に通いつづけてきた経緯などは、本誌84号からの6回の連載や協会のシンポジウムなどでも何度かお話ししてきたので、本稿では触れないでおく。

 とにかく東京で生まれ育った私にとって、半農半牧の生活は興味深かったし、マッチ1本さえ貴重にするような、文明とはかけ離れた暮らしぶりは、とても新鮮だった。9回にわたる滞在を通算してもまだ2年にはいたらないが、いちおう四季も体験した。85年以降は、音楽を研究する妻と一緒に訪れるようになっている。表層は変わっても、カラーシャたちの実体はまだまだ昔のままで、日常生活はもちろん、祭りや儀礼などの記録にも熱中できた。

 しかし、今年の春の9回目の滞在では、カラーシャ社会がここにきて大きく変貌しようとしていることを痛感させられた。ひとつには、3年間という、これまでで2番目に長いブランクの後だったというせいでもある。子供たちが成長してしまって、顔だちが似た弟を兄と間違えてしまう。名前を知らない赤ん坊が、あちこちの家で生まれている。妻が仲良くしていた女の子が、他の谷や村に嫁に行ってしまって、さびしい思いもした。東京ではアッという間に時が流れていくが、カラーシャの谷では、3年はやはり3年という進み方で、着実に過ぎていく。



水道と電気

 今思い返してみると、兆候はじつは、3年前の89年春の滞在でもはっきり現われていた。まず、各村に水道が引かれていた。谷の一番奥の村近くにある泉から水をパイプで引き、カラーシャだけではなく、ムスリムの家庭にも水が行っている。蛇口があるのは村で数ヵ所だが、斜面をくだって川や水路まで水汲みにいかなければならない女性たちの労働が、大きく軽減された。

 この資金は、カラーシャによると、パキスタン政府から出ているという。非イスラーム教徒の「少数者」として、カラーシャはゾロアスター教徒(ファルシー)や仏教徒などと合わせて、国会に一つ議席を持っているのだが、10年ほどこの「少数者」の代議士だったゾロアスター教徒出身のB氏が、政府から配分されている予算のなかから捻出して、この水道施設を造ってくれたのだそうだ。

 さらに一番奥の村には、立派な発電設備ができていた。夜間は各家庭に裸電球が灯り、昼間は粉挽き小屋で石臼を回すのに電気が使われている。こちらのほうは、クリスチャンのミッションが資金を出しているそうで、外国人たちが何人もやってきて、たちまちのうちに本格的な発電設備を造ってしまった。

 なぜミッションがそこまでしてくれたのかというと、英語が話せる、この村のリーダー格の青年が、一時アフガン難民のキャンプなどで、ミッションの手伝いをしていた経験があるからだ。電気の恩恵にあずかれない他の村の者は「クリスチャンに改宗したので、電気を引いてもらったのだ」などと噂している。立派なホテルも建てたし、ジープまである。もっとも彼は、日本をはじめとするテレビ局のたび重なる取材の際に、ガイド兼通訳兼コーディネーターとしてかなりの大金を手にしているようなので、個人的な資金も相当持っているようだが。



選挙と援助

 89年の滞在では、こうした目に見える変化に驚きはしたが、人々の雰囲気は、以前とそう違っていなかった。ところが、今回はまず、日常の会話にあまりにも金のことが登場するのに驚かされた。
 神に犠牲を捧げたあと、村の代表者たちが集まって会食をする時にも、金の話ばかり。これまでだったら、その日の儀礼そのものや伝統についての解釈をめぐって盛り上がるのだが、どう金を分配するかということに話題が集中してしまう。

「分配」と書いたことでもおわかりのように、金のほとんどは外部から来る。まず、先に述べた「少数者」の代議士から。その後の選挙でB氏は敗れ、同じゾロアスター教徒のA氏が議席を奪った。カラーシャの票が効いてA氏は勝利し、そのお礼として、祭壇や神殿、産屋(赤不浄の際の隔離小屋)を新改築する巨額の費用が予算化され、そのほとんどが完成しつつある。かつては、一ラク(10万)ルピーといえば目もくらむばかりの大金だったのに、人々の口から平気でそんな数字がぽんぽん飛び出てくるようになっている。

 少々付け加えておけば、このあとベナズィール政権がひっくり返った際の再選挙では、B氏が強烈な巻き返しに出た。カラーシャの多くは、今度はB氏に投票したが、最終的には他の地域での得票のせいで、かろうじてA氏がまた勝利をおさめた。おかげで、A氏は以後、カラーシャのところに足を運ばなくなってしまったという。日本でも同じだが、これらの選挙には金がつきまとうため、カラーシャはA氏派とB氏派に分かれて、日常的にも対立を深めているのが現状である。

 このほか、アーガー・ハーン(イスマイリ派のホージャ派の指導者)から、潅漑水路施設などの援助事業に対する多額の金が出ているし、一部で行なわれているヒマラヤスギの伐採に対する補償や、ムスリムの入植者にだましとられたクルミの木の補償金なども、政府から支払われるようになっている。



分配の実態

 こうして外から来た金の分配は、どの社会でも有力者が担当することになるわけだが、カラーシャの社会には、宗教的にも政治的にも、長と呼べるようなリーダーがいない。有力者の条件も、家柄などではなく、多少は経済的な余裕も必要だが、要は性格の強さ、声の大きさ、頭の回転の速さが決め手になる。これまでは、伝統に詳しい、リーダーシップのある老人や壮年の男が有力者であった。

 ところが最近では、街で教育を受けてきた若者たちが、これらの金の分配に大きく関与するようになってきた。ウルドゥー語が読み書きできるので、代議士や政府の関係者などとも直接話ができる。大金の計算もちゃんとやれる。カラーシャ語は文字を持たないので、彼らインテリたちの「学力」と外の世界に対する知識に対して、年長者たちはとてもかなわないと感じてしまう。

 さらに問題をやっかいにしているのが、このあたり一帯(おそらくパキスタン全土も同じだと思われるが)で一般的な、「ティカ」という制度である。ティカダールと呼ばれる請負人が、土木事業をまるごと、ある金額で引き受けるのだが、ちゃんとした見積りなどまったくないまま、発注する側はこの男に全面的に任せてしまう。ティカダールは自分で土木機械や資材を購入したりレンタルしたりし、労働者をかり集める。工期が短く、資材が少なくて済めば、支払い額が少なくなるから、その分儲けになるわけで、ほとんどの場合、ティカを引き受けると、莫大な収入が得られることになる。監査などはもちろんないため、いったいいくら経費がかかったのかは誰にもわからないし、賃金の支払いをめぐってのトラブルも絶えない。せっかくの援助の金も、末端までほとんど届かず、ティカダールの懐に入ってしまうことが多いのだ。

 すでに牧畜や農作業には戻れないインテリの若者は、だからこのティカを得ようとあちこちに働きかけ、動き回る。ティカで稼いだ金を有効に使って味方をつくっていけば、またさらに発言力が増す。

 こうして、急激な社会の変化を好ましく思っていない年長者たちも、若者たちに対してあまり発言できないような状況ができあがりつつある。また、ティカで稼いだ者に対するやっかみや反発もすごく、A・B両派の戦いと複雑に絡みあって、人間関係がかなりこじれてしまっている。これから先、この傾向はますます強くなるに違いない。民主的なカラーシャ社会なればこその、悲劇だと思う。



貨幣経済の浸透

 たしかに、外の世界からさまざまな物質文化が入り込み、カラーシャたちは物要りになってきている。かつては松の根を細く割ってその燃えさしを明かりにしていたのに、今ではどこの家でも石油ランプを使う。岩塩を漬けて塩味で飲むことがほとんどだった紅茶も、砂糖を入れないと飲めない者も多くなってきたし、食用油もヤギのミルクからつくるギーではなく、外の世界のヤシ油を使うようになった。タバコも外国人などにもらってみんなで回し飲みをしていたのに、1日に数箱を消費するヘビースモーカーの青年も今では珍しくない。男たちの腕には時計がはめられ、女たちの服装や装身具も年々豪華になってきている。

 このように貨幣経済化が急速に進んだのは、パキスタン北西部にアフガン難民やゲリラが流入して、作物などが換金できるようになって以後だが、最近そこへ、援助の金がどっと流れ込んできた。カラーシャたちは、外から来る金をすっかり当てにするようになった、というより、金は外からいくらでも入ってくると思い込むようになってしまっている。自分で金を稼ぐというより、どう有利に分配にあずかるかということに関心がある。だから、分配の方法や額をめぐって不信感が渦巻き、今回の滞在中はグチや悪口の聞かされる機会がすごく多かった。

 少数民族を抹殺しようと思ったら、弾圧をして相手に結束を固められるより、徹底的に援助の金を注ぎ込み、勤労意欲をなくさせ、外の世界へのあこがれをつのり、伝統社会が内側から崩壊していくように仕向けるのが一番の早道ではないか、などと昨年あたり私はそんな冗談を言っていたものだが、今は本心からそう思う。



アイデンティティの喪失

 14年前の夏、私はカラーシャたちが観光客にどんどんスポイルされていくような危機感をいだいた。それがたまらなく嫌で、10年早く来たかったと切実に思った。しかし、その後の10年のほうがはるかに変化は急速だったし、そしてさらに4年がたった現在と較べたら、あの頃がはるか昔の、古き良き時代に思えてくる。カラーシャたちは、外の直接的な影響からではなく、内側から変わってしまったのだ。78年に行っておいてほんとうによかったと、つくづくと感じている。

 伝統の束縛から自由な若者たちは、タブーにもとらわれない。酔っ払って踊りの輪に飛び込んでくる以外には、積極的に祭りや儀礼に参加しようとはしない。さらに、これまでとかく敵対視してきたイスラーム勢力との付き合いも、うまくこなそうとする。インテリ同士の会話は、カラーシャ語ではなく、チトラルで話されているコワール語が使われることも多い。

 代議士の援助でできた祭壇や神殿、産屋などは、このような若者たちがティカで造ったものがほとんどなので、伝統的な石積み工法ではなく、外の世界から入ってきたセメントや漆喰、トタン屋根などが多用されている。なかには醜悪としか思えないものもあり、ひじょうに残念である。

 カラーシャの場合、民族としてのアイデンティティの喪失は、そのまま改宗へと結びついていく。櫛の歯が欠けるように、毎年改宗者が出ているなかでこのような若者たちが増えてくると、たった2000人しかいない少数民族は、どうなるのだろう。



来年の旅に向けて

 以上書いてきたようなことは、本来であれば、私個人の胸の中にそっとしまっておくべきものなのかもしれない。少なくとも、カラーシャの民族としてのプライバシーを私が暴いてしまっていることは、間違いないだろう。しかし、それでもあえてここに書かせていただいたのは、これはカラーシャのみならず、パキスタンの他の農村でも、ごく当たり前に見られる傾向なのではないかという気がするからである。イスラームの伝統が強い土地では、宗教的伝統と近代化との対立が、カラーシャとはまた違ったかたちで、問題として持ち上がっているのではないか。他のところでの事例でも、私の参考になることが少なくないだろうと思うので、ぜひご意見をうかがわせていただきたくて、あえて書いてしまった。

 今、私が通い続けているムンムレット谷の隣りのルクムー谷では、女たちのための沐浴場を造ったり、ハンドクラフトの展示即売会などでカラーシャたちの現金収入の道を模索しようとしている日本女性がいる。資金は日本で募金を呼びかけたり、さまざまな方法で集めていらっしゃるようだ。しかし私は、これまで書いてきたような状況がどうしても気になって、趣旨には全面的に賛同しているにもかかわらず、彼女の仕事に何も協力できないでいる。

 前述した電気を引いたミッションやこの日本女性だけでなく、カラーシャのところに何らかのかたちで援助をしてくれる外国人の数も増えてきた。今年の春、私は何度もこれらの人たちと比較され、「お前は、俺たちに何をしてくれるのか?」と正面きって問い詰められることがたびたびあった。いつも誰かがそばにいて、これまでに私がやってきた医療行為や、廃れつつある伝承などの記録をしていること、さらに冬のチョウモス祭でヤギをたびたび捧げて、年一回しか訪れることが許されない聖域へも何度も行っていることなどを話して説得してくれるので、深くまで突っ込まれることはなかったが、このようにすっかり援助を当てにする人たちが増えたことを嘆くよりも、自分がはたして彼らに対して何ができるのかと、四六時中考え込まされた。

 いまは単なる記録者としてとどまり、何十年か先に、伝統文化をもう一度取り戻したいと思った彼らにそれを還元するということだけで、いいのだろうか。これに対して自分なりの答えが見つからないうちは、再びカラーシャの谷を訪れることができそうもない。