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私のパキスタン印象記
大きな転換期を迎えた“異教徒”の谷
広告プランナー 丸山純
『月刊アピック APIC』136(89年7月号) 国際協力推進協会 pp.20-21 |
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パキスタンの北西端に位置するチトラル行政区の片隅に、「カラーシャ族」という少数民族がいる。現在の人口は2000人足らず。ヒンドゥークシュ山脈を深く刻んだ3つの谷を居住地とし、半農半牧の自給自足生活を営んでひっそりと暮らしている。
チトラル行政区に限らず、パキスタンからアフガニスタンにかけての山岳地帯は完全にイスラム教一色に染まっているが、その真っ只中で、カラーシャは他に類を見ない独自の多神教を守り続けている。馬頭をシンボルとする祭壇でヤギを犠牲に捧げたり、大小の祭りや儀礼をしばしば催したりするため、周辺のイスラム教徒は彼らを“異教徒”と呼んで差別し、孤立させ、改宗を強要してきた。
私が初めてカラーシャの存在を知ったのは、高校1年生のときに読んだある雑誌記事がきっかけである。「ヒンドゥークシュ山脈の奥深くに、アレキサンダー大王の末裔がいる」という記述を読んで、たちまち興奮してしまった。紀元前 327年にこの地方にやってきたアレキサンダーの遠征記録にも、カラーシャと推定される謎の民族が登場するし、カラーシャ自身、自分たちはアレキサンダーの遠征軍の子孫だという神話を継承しているのだという。壮大な歴史のロマンにすっかり魅了されてしまい、いつかはその謎の民族が住む谷を訪れてみたいとあこがれていた。
夢が実現したのは、それから7年後の1978年の夏、大学を卒業する直前のことである。このときは約3ヵ月間、3つの谷のなかで最も大きいムンムレット谷に滞在したが、最初のうちは、なかなかカラーシャの社会に入り込めなかった。というのも、私が読んだ雑誌記事が書かれた頃と違って、谷には大勢の観光客が訪れるようになり、カラーシャたちはすっかり観光客ずれしていたからである。カメラを向けると結構な金を要求されるし、子供たちは金やお菓子をねだる。人類学者などが多額の金をばらまいたせいで、ある英語が話せる男からは、公務員の給料の10倍もの金額を月当たりのガイド料として要求された。 あこがれの“秘境”は、すっかり観光地と化してしまっていたのだ。もう10年、いや5年でも早く来ていたら、とつくづく思った。
ところが、途方に暮れて、どこか他の面白そうな土地に行こうと決断しかけた矢先、ある男が死んで葬儀がおこなわれた。3つの谷のほとんどのカラーシャが一同に会して、川岸の広場に安置した遺体を囲み、3日間にわたって夜も昼もひたすら踊り、歌いつづけたのである。まさに“異教徒の秘儀”と呼ぶにふさわしい、その異様な葬儀を見ているうちに、彼らの体内に潜む得体の知れない力の存在を強く感じた。表面的には観光化されてしまっているように見えても、カラーシャの精神の奥深くには、日本人とはかけ離れた世界観が残っているに違いない。
私は、それをなんとか見極めたいと切実に思った。そして幸運なことに、葬儀の最中にブンブール・カーンという男と知り合いになり、彼の家に下宿することになった。
早いもので、あれから11年が過ぎようとしている。以後、私は7回にわたってブンブール・カーンの家を訪れ、衣食住を共にしながら、なかなか部外者には明らかにされない儀礼や習俗をこつこつと記録しつづけてきた。のべ滞在日数は1年半以上になる。
その間、結婚や出産、子供たちの成長など、うれしいことも沢山あるのだが、親しくしていた人が死んだり、イスラム教へ改宗したりする例も少なくない。村の中のどろどろした人間関係に巻き込まれてしまうこともある。
とくに最近強く感じるのは、若者たちの意識の変化である。外の世界にあこがれて、服装を真似たり音楽に酔ったりするのは理解できるが、彼ら同士の日常会話が自分たちのカラーシャ語ではなく、チトラルで話されているコワール語を使うようになってきたのが、心配だ。祭りや儀礼への参加もあまり熱心でなく、このままでは民族としてのアイデンティティの喪失を招くのではないだろうか。
この傾向が顕著になってきた原因のひとつとして、街に出て勉強をしてきた若者たちが、谷に戻って暮らしはじめたことがあげられる。彼らは農耕や牧畜に携わる気はまったくなく、テレビの取材チームのガイドをしたり、政府の援助による土木工事などで中間搾取をしたりして、大金をやすやすと手にしてしまう。カラーシャの社会はかなり民主的で、政治的にも宗教的にも指導者が存在しないため、老人たちはこれらの若者の行動を制止することができない。外の世界との折衝では、パキスタンの公用語であるウルドゥー語がしゃべれる若者が、共同体のリーダーシップをとるケースも多くなってきている。
共同体がいよいよ内部から変わりはじめ、カラーシャは大きな変革期を迎えている。醜い争いや心の荒廃に胸が痛む思いをすることも少なくないが、20世紀末を共に生きる同時代の仲間として、彼らがこの難しい時期をどう乗り切るのか、見守っていきたいと思う。