カラーシャ族の春祭り・ジョシとその音楽


1)カラーシャ族

カラーシャは、インド・アーリア語族インド語派ダルド諸語に分類される独自の言語をもつ。本稿ではカラーシャ自身の発音にできるだけ近いカタカナで表記するようにしているため、他の文献とは異なった表記になっている場合がある。
【→本文に戻る】


2)3つの谷

北からルクムー、ムンムレット、ビリウBiriuの3つの谷がある。(地図参照)
【→本文に戻る】

3)歌詞と意味

本稿で取り上げた歌の歌詞は、1989年に現地で録音したものを、ブルーア村のブンブール・カーンBumbur KhanとミルザマースMirzamast、ワリ・ベークWali Beqの協力で再現したものである。歌や儀礼の意味、歌詞の解釈など、本稿の考察はこの3人によるところが大きい。なお、歌の題名は『』で囲んである。
【→本文に戻る】


4)3種類のパフォーマンス

詳しくは、小島令子 1986「カラーシャ族の音楽・ダジャイーラックについて 夏祭りウチャオにみるその構造と社会的意味」『音楽学』32、2〜18頁を参照。本稿で充分触れられなかった音楽構造や音楽の在り方などについて考察している。
【→本文に戻る】


5)ムンムレット谷のジョシ

Morgenstierne, G. 1947 "The Spring Festival of the Kalash Kafirs" India Antiqua.Leiden. pp.240〜248。

Morgenstierne, G. 1973 "The Kalasha Language" Indo-Iranian Frontier Languages Vol.4, Oslo, pp.29-33.50-65。

紀行文ではあるが、英国の探検家、ショーンバーグによる報告も詳しい。 Schonberg, R.C.F. 1938 "Kafirs and Glaciers-Travels in Chitral" London, M.Hopkinson.(雁部貞夫訳 1976『異教徒と氷河』 白水社55〜68頁)。

文化人類学的なアプローチはシーガーによってなされている。Siiger, H. 1974 "The Joshi of the Kalash. Main Traits of the Spring Festival at Balangru 1948" Cultures of the Hindukush. Jettmer, K. Wiesbaden. pp.87-92。

さらに、自身は現地を見ていないが、イェットマーはこの3人のルクムー谷のジョシの報告に、ムンムレット谷のジョシについての伝聞を記したフリードリッヒの未発表の草稿を加えて、ジョシについてまとめている。Jettmer, K. 1975 "Die Religionen des Hindukusch. Vol 2", Stuttgart. pp. 388-392。

ルクムー谷とムンムレット谷のジョシの比較については、稿を改めて述べてみたいと考えている。なお、ムンムレット谷のジョシについては、これも紀行文であるが、丸山純による報告がある。丸山純 1985「ムンムレット谷の春」『あるく・みる・きく』218号 近畿日本ツーリスト観光文化研究所、2〜37頁。
【→本文に戻る】


6)音響空間が、祭りの場に出現する

このような音のずれや音楽の在り方は、フェルドがいう、カルリ族がもつ「ドゥルグ・ガナラン」、つまり「重ねあげた響き=エコー・ポリフォニー」という概念と酷似している。カラーシャはこのような音の在り方に対する言葉をもたないが、ダジャイーラックによって生じる音響空間は、まさに「重ねあげた響き」と呼ぶにふさわしい。フェルド,S、山田陽一訳 1989「重ねあげた響き−カルリ社会の音楽と自然」 『ポリフォーン』5号、TBSブリタニカ、109〜110頁。
【→本文に戻る】


7)変則的なリズム

カラーシャは『ガッチ』を「太鼓の聖なるリズム」と説明するが、筆者は、リズムだけでなく、そこで男たちがおこなう「願かけ Heshi」を含めた行為全体を指すのではないかと解釈している。なお『ガンドーリ』と『ガッチ』は、下の3村がバトリック村に向かう直前にブルーア村でもおこなわれるが、ブルーアでのものは正式な『ガッチ』とは認めないという者もおり、説明が繁雑になるので、本文では触れなかった。
【→本文に戻る】


8)ダギナイ

イェットマーは、フリードリッヒがあるカラーシャから聞いた話として「この踊りの鎖が切れると、あの世へいく小径が通れなくなる」という説明を紹介し、『ダギナイ』で死んだ妹は、最初の死者として神格化された死の女神ではないかと考察している。Jettmer, K. 1975 ibid. p.389。
しかし筆者が1989年に確認した範囲では、このような話は現在では伝えられておらず、死の女神の信仰があったという痕跡もなかった。
【→本文に戻る】