“異教徒”の里・カフィリスタン 国境の谷に眠る岩絵を訪ねて 丸山純 『山と渓谷』1985年5月号 pp.28-31 |
1978年以来、私は3回にわたって、のべ1年近くカラーシャ族の村に滞在し、言葉を習ったり、農作業や牧畜を手伝いながら「異教徒」たちの儀礼や祭りに参加してきた。とくに印象的だったのが、毎年12月のチョウモス祭で行なわれる「びっこの動物」という、家畜の安全を祈願する祭事である。1日目、神殿の柱や壁などに墨でヤギやヒツジの絵を描き、動物の形をしたパンを焼く。そして翌朝、そのパンを壊してびっこにしてから、村中で大騒ぎをすると、絵やパンから動物たちの魂が抜け出して、谷の奥の放牧地にある「聖なる岩」に、絵となって貼りつくという。村人のほとんどがその岩絵を見たことがなく、一種の畏れと憧れをこめて熱っぽく語るのを聞くうちに、どうしても行ってみたくなってしまい、84年の夏、再びムンムレット谷にやってきたのである。
ウチャオといわれる夏祭りが終わり、谷がいくぶん秋めいてきた9月半ば、3人の若者と共に、私は岩絵の眠る放牧地へと出発した。その辺りはアフガニスタン国境に近く、外国人の立入りは許されていないのだが、チトラルの知事が特別に3日間の許可証を発行してくれたのだ。
1日目は標高2000mの村からずっと川筋を遡り、途中から山腹のヒマラヤ杉の樹林帯の中を一気に登りきって、アングラクビリッジという放牧地へ行き、1泊した。標高は3300m。下界が一望のもとに見渡せ、はるか遠くに村も見える。放牧地というと、草地の広がった平らな所を想像してしまうが、そこはもう岩壁と呼んでもおかしくないほどの岩だらけの急斜面だった。石造りの粗末な夏小屋が、斜面にしがみつくようにして建てられている。村が高温になる6月から10月までの間、すべての家畜がこうした高地に連れてこられ、放牧されるのだ。そして男たちは長期間山にこもり、家畜の番をする。
久しぶりの岩登りに汗をかきながら、昼近くウストゥイという放牧地にたどり着いた。ムンムレット本谷から枝分かれした支谷が、間近に迫ったアフガニスタン国境の稜線まで続いている。カラーシャ族の足で、3時間ほどだそうだ。チーズ作りの手を休めた男たちに国境まで誘われたが、時間に余裕のない今回は、見送るしかなかった。
岩壁にあるとばかり思っていたのに、川原に転がっている3つの岩の上や側面に、岩絵は刻まれていた。真っ黒な岩の表面を削って、ヤギや人間、抽象文様などが彫りこまれている。パキスタン北部に点在するスキタイ風の動物文様や仏塔の岩絵とは、少しモチーフが違っているようで、チョウモス祭でカラーシャたちが描く絵そのものだった。風化が進んでぼやけてきた絵も多く、数年後にはそのほとんどが消えてしまうことだろう。そのときカラーシャたちは「びっこの動物」の祭事をどのように行なうのだろうか。岩絵が無事かどうか見届けてきてくれ、と心配顔で語った長老の顔が、ふっと浮かんだ。
夢中になってシャッターを切るうちにどんどん時間が経ち、やがて深まりゆく夕闇のなかに岩絵は沈んで見えなくなった。このオータク谷も、いちばん奥はアフガニスタンに続いていて、そこから吹いてくる風は、身を切るように冷たい。
谷の奥の方を見ると、山々が雪で真っ白になっていた。家畜が村にもどってくる日も、もうすぐだ。