〈ヒマラヤ名峰事典〉

ヒンドゥークシュに住む「異教徒」、
カラーシャ族の生活と文化


丸山純

『ヒマラヤ名峰事典』 平凡社 pp.589-593




 パキスタンの北西辺境州の州都ペシャワールからパキスタン航空の国内便で約40分、ちょうど200kmほど真北に飛ぶと、ヒンドゥー・クシュの登山口として知られるチトラルに到着する。ぎらぎらと照りつける灼熱の太陽、草木が1本も見えない岩だらけの山々、抜けるような青空に輝く純白の峰、氷河の雪融け水を集めて真っ黒に濁った河川、河岸段丘上に点在する緑のオアシス……。小さな飛行場に降り立って周囲を見渡したとたん、あまりにも日本とかけ離れた砂漠的な景観に、誰もが歓声をあげることだろう。ヒマラヤもここまでくると、インドやチベットがはるか遠くなり、中央アジアや西アジアがすぐ間近に迫っているのをひしひしと感じてしまう。

 こういう乾燥した土地に住む人たちといえば、やはりイスラム教徒ということになる。日に5度の礼拝を欠かさない敬謙な信者がほどんどで、聖職者の地位も高い。アッラーの他にはいっさいの神を認めないこの苛烈な一神教がチトラル地方に入ってきたのは、13世紀になってからと伝えられる。

 ところがそのなかに、土着の多神教を守りつづける「カラーシャ族」という少数民族が暮らしている。現在の人口は約2000人。馬頭をシンボルとした祭壇に神々を降臨させ、生け贄のヤギを捧げて四季おりおりに祭りや儀礼をとりおこなうので、周囲のイスラム教徒たちは彼らを「異教徒」と呼ぶ。言語も、チトラルで使われているコワール語と兄弟関係にあるが、独自のカラーシャ語を話す。
 


「異教徒」の住む3つの谷

 カラーシャが住むのは、チトラル県を南北に貫いて流れるクナール川の支流にあたる、3つの谷である。チトラルからクナール川沿いにジープで30分ほど南下するとアユーンという村があり、3つの谷でもっとも規模の大きいムンムレット谷と、北に伸びるルクムー谷が途中で合流して1本の流れとなり、西からクナール本流に注いでくる。アユーンの下流にあるガヒラートには、一番南に位置するビリウ谷との合流点がある。

 アユーンの近くはまだ赤茶けた裸の山が続いているが、1時間ほどジープで走って谷の核心部に入ると、にわかに緑が増えてくる。山肌にはカシの林が広がり、上のほうにはスギ林が見える。村はクルミやアンズ、リンゴなどの果樹に囲まれ、畑にはトウモロコシがすくすくと育っている。緑にあふれた豊かな谷間を見ていると、なぜカラーシャが独自の多神教をこれまで守りつづけてこられたのかが、自然に納得できる気がする。

 村は2000mあたりに点在し、外敵や夏の洪水を避け、冬の日照を確保するために、川からかなり登った小高いところにつくられている。伝統的な家屋は木材と石を組み合わせた2階建てで、後ろ半分が山の斜面に半分埋まりこんだように建てられ、階段状の集落を形成する。人口は村によってまちまちだが、40人から250人ほどである。

 住居はワンルームになっていて、家族全員がひとつの部屋で生活するため、プライバシーはほとんどない。部屋の中央には炉があり、炊事や食事、団欒なども、すべてここで営まれる。周囲にはパキスタンで広く普及している縄編みベッドが置かれ、男や客人に対しては、牛革の紐を張った背の低い小さな椅子が勧められる。



黒い貫頭衣と宝貝の被り物

「イスラム共和国」を名乗るパキスタンでは、都市部はともかく、女性が人前に顔をさらすことはありえない。ところがカラーシャの谷へ行くと、女性が堂々とふつうに暮らしているので、ほっとする人も多いことだろう。しかもその民族衣装が、他に例を見ないほどユニークだ。

 まず目を引くのは、タカラガイをびっしりと縫いこんだヘアバンド(シュシュット)と被り物(クッパース)である。どちらも黒いヒツジの毛を自分たちで紡いで糸にするところから織りあげたもので、シュシュットには120個ほど、クッパースにいたっては600個以上も貝が付けられていて、ずしりと重い。

 さらに、くるぶしまで届く貫頭衣も独特のものだ。幅広の帯を締めて裾をたくしあげ、日本の着物と同じように懐をつくって着用する。以前は、夏でもよくヒツジの毛で織った厚手のものを着ていたが、最近では店で手に入る木綿や化繊の薄い生地を、手回しのミシンで縫いあげることが多くなった。この黒い服に、幾重にもかけた赤や白、黄色のネックレスが鮮やかに映える。

 男たちは、パキスタン全土でポピュラーなシャルワール・カミーズを着ているため、イスラム教徒とほとんど区別がつかない。帽子も、チトラル帽と呼ばれる毛織りのものをバザールで購入する。ただし、伝統的な服装は女性と同じ貫頭衣(男は白ヒツジの毛)で、これに帯を締め、袴のようなズボンをはく。急峻な岩場や雪の上を歩く牧童たちは、素足の感覚を大切にしたいため、靴下の上になめした革や毛皮を巻きつけ、履き物にしている。



3つの作物を2年で輪作

 谷底の河岸段丘はどこも開墾されて畑になっていて、灌漑水路が網の目のように走っている。主な作物はトウモロコシとコムギ、キビで、粉にひいてパンを焼き、主食にする。たいていの家は複数の畑を所有し、休耕→トウモロコシ→コムギ→キビと、これら3つの作物を交互に2年ががりで輪作している。

 農作業が始まるのは、近くの山々の雪も融けた4月中旬、谷にアンズの花が咲くころだ。冬のあいだ休耕していた畑をウシに引かせた犁で掘り起こし、家畜小屋で寝かせておいた堆肥を入れる。こうした力仕事は男が担当する。そして5月になり、木々の若芽がすくすくと伸びはじめるころ、トウモロコシを播く。そのあとは急激に気温が上がり、季節は一気に初夏を迎える。畑に水を入れたり、乾燥や雑草の発生を抑えるために表面を浅く中耕するのは、女の仕事である。

 6月の暑い時期、前年の秋に別の畑に播いておいたコムギを収穫する。コムギは聖なる作物として宗教儀礼でも使われ、客人に対してもコムギのパンを供するのが礼儀とされる、古くからある大切な作物である。収穫したコムギは、数頭の雄ウシをつなぎ、ぐるぐると杭のまわりを歩かせて脱穀する。道が整備された最近は、アユーンのイスラム教徒が運んでくる脱穀機を使うことも少なくない。

 コムギを刈り取ったあと、すぐに犁耕と施肥をおこない、キビを播く。最近はキビのパンを子供たちが好まないことから、代わりに早稲のトウモロコシを植える家もある。

 9月になると、それまで緑に輝いていたトウモロコシの穂先が黄色く染まり、やがて収穫が始まる。男たちが三日月形の鎌で刈り取り、家族ごとに集まった女たちがひとつずつ実を取り出すのどかな風景が、谷のあちこちで見られる。このトウモロコシは、春に播いた分である。収穫後は再び犁耕と施肥を繰り返し、コムギを播く。11月になると、コムギのあとに植えたキビや早稲のトウモロコシを収穫する。その畑は休耕して、冬を越す。

 穀物のほかに、春から秋にかけて、トマトやジャガイモ、カボチャ、各種の豆類などを栽培している。また、クワの実やアンズ、リンゴ、ナシ、モモなどの果実と、クルミやアンズの種などのナッツも豊富に利用される。



冬の日帰り放牧と夏の放牧地

 農耕と並んで、牧畜も重要な生業となっている。主力となる家畜はヤギで、乳をしぼり、各種のチーズやバターが作られる。少ない家では数頭、多い家では400頭ほど所有している。ヒツジはほとんど羊毛を得るために飼っているだけで、重要視されていない。ほかに、ヤギが乳を出さない期間の搾乳用として雌ウシを、犁耕や脱穀などのために雄ウシを飼育している家もある。

 冬のあいだ、家畜たちは村にとどまる。ヒツジには家畜小屋で飼料を与えるが、ヤギは村近くのカシ林に連れて行き、カシの葉を食べさせる。カシといってもまるでヒイラギのようなトゲがある種類なので、柔らかい葉を付けた細い枝を切り落とすために、牧童たちは高い木に果敢によじ登っていく。雪やみぞれが降りしきる日も休めない、つらい仕事だ。

 春になると仔ヤギが生まれ、少しずつ搾乳が始まる。雄ヤギを去勢し、種オスを群れから離して交尾時期をコントロールしているため、だいたい同時期に出産を迎えるのだ。

 そして、山の雪がすっかり融ける5月末になると、谷の奥のアフガニスタン国境にほど近い、高地の放牧地に家畜を連れていく。4000mを少し越えるあたりに放牧小屋があり、家畜の種類や年齢に応じてそれぞれ別のところへ放牧に連れていったり、チーズづくりを終日担当したりと、親しい者同士で役割を分担しながら、気ままな暮らしをする。

 10月も中旬になり、放牧地に雪が降ると、家畜をいっせいに村に戻す。



祭りに彩られた1年

 カラーシャの社会では、祭りが重要な位置を占めている。季節の変わり目に必ず谷を挙げての大きな祭りがあり、さらに村や氏族単位の小さな儀礼が頻繁におこなわれる。

 カラーシャがいちばん楽しみにしている祭りは、5月中旬に4日間にわたって催されるジョシである。これは牧畜の豊饒を願うもので、初日は子供たちが野辺に出かけて、歌い踊りながら、花を集めてくる。2日目は女たちが年寄りも幼女もいっしょになって、やはり歌と踊りを続けながら村域内に点在する家畜小屋を巡り、ヤギのミルクを集める。後半の2日間は、谷に住むカラーシャ全員が一堂に会して、盛大な歌と踊りが終日繰り広げられる。

 もうひとつの重要な祭りが、12月のチョウモスである。山の神迎え、地母神祭、火祭り、家畜の神迎え、祖霊祭、浄化儀礼、青年式など、2週間にわたって連日異なった行事が続く。とくにクライマックスの4日間は、村から部外者を完全に締め出し、西方からやってくるバリマインという強力な神を迎えてヤギを大量に捧げ、秘儀をとりおこなう。そして、冬至の日にカーニバル的などんちゃん騒ぎをして終了する。

 このほか、農耕の開始を告げるキラサーラス祭(4月)や放牧地での豊饒を感謝して収穫の開始を告げるウチャオ祭(8月)をはじめ、秋の結婚披露宴や新築祝いから季節ごとの小さな儀礼、さらには2晩徹夜で踊り明かす葬儀まで、何らかの宗教行事が連日のように催されている。しかもそのほとんどに歌や踊りが伴うので、歌舞音曲が公式には禁止されているイスラム社会とは、祭りの楽しみ方や役割もずいぶんと異なっている。



神々と聖俗の観念

 カラーシャの神々はデワと呼ばれ、それぞれ祭壇や神殿、聖域などをもつ。主神マハンデオ、種子と家畜を司るインガオ、果実と子宝の女神クシュマイ、家と子育ての女神ジェシュタク、年に1度だけ来訪するバリマインなどが代表的で、各村の守り神や妖精に近い存在など、地位の低い神もいる。3つの谷でそれぞれ信仰の内容が異なり、ルクムー谷ではサジゴールが、ビリウ谷ではワリンが、それぞれマハンデオより高位に置かれている。また、これらのデワの上にホダーイあるいはデザウと呼ばれる宇宙の創造主がいるとされるが、直接祈りを捧げることはない。

 カラーシャの社会には、さまざまなタブーが存在する。とくに、配偶者の死後は次の大祭までの数ヵ月のあいだ日中は外出できなかったり、生理期間中や出産時に女性は村から出て隔離小屋にこもらなければならなかったりと、死と女をめぐる穢れは重大なものと考えられている。女性はデワの近くに行けないし、デワに捧げた肉も食べられない。家のなかの聖なる領域に足を踏み入れてはならず、髪の毛を梳くのも川の特別な場所に行くことになっている。こうしたタブーを犯すと災厄が個人や共同体に降りかかるため、程度に応じて浄化儀礼が急遽実施される。



アレキサンダー遠征軍との接触

 このような特異な文化をもつカラーシャとは、いったい何者なのだろうか。じつは、カラーシャは単一民族ではなく、氏族によって出自はまちまちである。ある氏族は西のアフガニスタン西南部から、別の氏族は東のギルギット方面から来たという。3つの谷に追いやられる以前はチトラル一帯の王として君臨していた氏族もいる。ただし共通の神話として「自分たちはアレキサンダー大王の軍隊の子孫である」という認識をもつ。

 ギリシア側の記録を見ると、紀元前327年、ちょうどクナール川をさかのぼったあたりで、大王の一行はニサという奇妙な町に到着する。ニサでは、遺体を木製の棺に入れて山の斜面に放置する風習があったという。現在は埋葬するようになっているが、カラーシャも数十年前までは類似した葬送習慣をもっていたので、ニサの住民たちはカラーシャの遠い祖先にあたると考えていいのかもしれない。

 もっともパキスタン北部には、他にもアレキサンダーの末裔を名乗る民族集団がいくつもあるうえ、東征以前にもすでにギリシア人の植民都市がペルシャやインドに存在していたという史実もあり、カラーシャがアレキサンダーの末裔の直系であると決めつけるのは、いささか性急すぎるように思う。現在の文化人類学や言語学の成果では、古代ギリシアとの関係より、むしろサンスクリットの文献に見られる古代インドとの類似点が数多く指摘されている。つまり、現在のインド人がやってくる前にこの方面に到達した、最初のインド・アーリアンの一派が母集団になっていて、その後、周辺民族とさまざまなかたちで混血が進んだのだろうという見方である。

 カラーシャはまた、どこか西方にあるツィアムという幻の土地からやってきたという神話を伝えているが、このツィアムを、カスピ海周辺と言われるインド・アーリアンの故地と考えることで、歴史のロマンがさらに深まっていくように感じられる。



今日的な問題点とカラーシャの将来


 いま、カラーシャの社会は大きな変革期を迎えている。外部資本による巨大なホテルが幾つも建てられ、さまざまな軋轢を生んでいるうえ、教育を受けた青年たちが農耕や牧畜に嫌気がさして観光地化への道をひた走ろうとしているのが、とても気がかりだ。すべてが話し合いで決まる民主的な社会であるだけに、若者たちの勝手な動きを、もはや伝統的な共同体がコントロールできなくなっている。

 現在のカラーシャを取り巻く環境のなかで、合理的で近代的な暮らしをしようとすると、そのまま外部のイスラム社会との関係を深めることにつながっていく。「異教徒」のままこの時代を乗り切るのはたいへん困難なことではあるが、せめて民族としてのアイデンティティだけは失わずにいてくれたらと、願わずにはいられない。